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つれづれ日記

田野の日本紀行−14

白銀温泉 編



 百石から奥入瀬、十和田、八幡平、松川、小岩井、網張、雫石、盛岡を経て、
 旅はもう終盤だった。4号線を南下していた。八月も終わりの頃だ。
 この辺りには石川啄木、宮沢賢治、高村光太郎等に所縁のある土地が多い。
 東北を旅する場合、これに太宰治を加えた作品群を嗜んでおくというのは、
 一つの楽しみ方ではある。高村光太郎山荘を訪ねる。
 智恵子の死後、光太郎が晩年を過ごした人里離れた山荘。
 この敷地には、光太郎が智恵子の故郷である福島の二本松方面の空を
 一人で偲んだとされる「智恵子展望台」と呼ばれる小さい丘がある。
 そこから空を仰ぐと、軽い目眩を覚える。切なくなるほどの純愛と
 素朴な晩年の暮らしに、少々しんみりしてしまう。

  その余韻を引いてここを後にすると、賑やかな花巻の温泉街に出る。
  喧騒を避け、そこから山の奥へと車を走らせる。幾つかの湯宿を過ぎ、
  やがて左右にスキー場らしきものが姿を現す。道はまだ続いている。
  やがて人家が絶え、道はダム湖へと出て、舗装が途絶える。
  人工湖とはいえ、人気の無い美しい山間の湖だ。ここで車を停める。
  少し散策してから来た道を戻ってみる。この澄んだ湖から流れ出る、
  透明な渓流が川の体を成してきた辺りに最初の集落があり、
  その川沿いに比較的大きめな黒光りする木造三階建ての温泉宿があった。
  もう夕方近かったので、その日はこの古い湯治場に宿を求める事にした。

 八月の終わり…強い太陽の陽射しもこの山里では蔭るのが早い。
 通された部屋の窓からは川が見え、まだ日中の残照が生々しいながらも
 ひんやり涼しい風が渡ってくる。気持ちいい。大の字で仰向けに寝そべる。
 ヒグラシの蝉時雨がシャワーのように降り注ぐが、うるさいとは感じない。
 カナカナカナカナカナカナ♪・・・むしろ子守唄のように心地よい。
 いつしか眠りに落ちていった。旅の疲れがピークの頃だった。

 村役場が夕刻に流しているらしい民謡の音色が、風に乗って聞こえてくる。
 川の瀬音に紛れて聞こえくるその遠い調べと共に目覚めると、
 辺りはもう薄暗くなりかけている。夕飯前に一風呂浴びようと体を起こす。
 湯殿への回廊は薄暗く、歴史を感じさせる。湯殿もやはり川を向いていた。
 誰も入っていない。ゆっくり湯殿に浸かる。たまらなく気持ちいい・・・。
 深い緑がどんどん闇に飲み込まれていく。
 もはや日が暮れる事を惜しいとは思わない。
 長い旅を終えるにはいい宿かもしれない。
 都会生活に急に戻るのは、ギャップも大きい。

  部屋出しの夕餉を頂き、ビールのほろ酔いでウトウトした。
  夜半に再び湯を浴びようと回廊をフラフラ歩いて、湯殿への降り口へ・・・
  ん?その先に、更に真っ直ぐな暗い廊下が続いているのが気になった。
  少し気味悪くも感じたが、その奥へと歩を進める。
  廊下は薄暗い中にも更に奥行きを予感させている。
  後で判った事だが、この宿は旅館棟と湯治棟とに分かれていたのだ。
  その長逗留の湯治客が暮らす湯治棟と旅館棟との境目に、
  一階の廊下から更に下を見下ろすように広く大きな湯殿があった。
  引き戸を開け、入ってみる。

 天然地形を利用した岩風呂のようだ。旅館棟の湯殿とは比較にならない。
 スケールもだが、元々湯が涌き出た所に後から建物を被せたような造りで、
 地下へ降りゆくように階段を下る。混浴の湯殿には3〜4人のお爺さんや
 お婆さん達がいたが、灯かりも薄暗くて気にはならない。湯船に入ると、
 縁に腰掛けられる段がある。でもそこから先はけっこう深い。
 皆立って入っている様子だ。立ち湯というものらしい。いいもんだな。
 岩の肌触りも
独特だ。歴史あるみちのくの秘湯との、それが出会いだった。
 湯から上がって来ると、真夜中の旅館棟は人の気が絶え、
 深いしじまに包まれていた。静寂の中に川の瀬音のみが響き、
 夜は深々と更けて行く。いつしか深い眠りに誘われる。

  明け方に目を覚ます。
  まだ朝食までには大分眠れるが、朝湯を欲して体を起こす。
  夕べの広い立ち湯へ入る。高い所にある窓からは朝の光が差し込み、
  大分雰囲気が違う。湯上がりに湯治棟をフラフラ散歩してみる。
  朝の湯治棟は、各部屋の朝膳の支度の気配で独特の活気に満ちている。
  棟の中程に小さな市が立っていた。今のコンビニのようにはいかないが、
  大抵の食材や生活雑貨が手に入る品揃えだ。朝と夕方に開くらしい。
  コーヒー牛乳を買う。空いている部屋をちょっと覗かせてもらった。
  旅館棟と違って自炊が出来る流しがついている。広くはないが、
  素朴で興味を引く部屋の造りだ。2人程で同居するのが普通のようだ。

 湯治棟にも当然湯殿があった。もう一度朝湯を浸う。
 こちらは素朴な庶民性を堪能出来る、いかにも日本の湯宿の造りだ。
 窓の外はもう陽が差している。湯治場の朝の風景…温かくて活気があり、
 若かった自分には不思議な感覚を伴って映った。
 純文学の中でしか知らなかった「湯治」という言葉が、
 リアルに引出しの一つになった。部屋に戻って朝餉を嗜むと、
 出発前にもう一度旅館棟の湯殿を戴く。
 明るい中で見ると、昔なりの贅を凝らした造りの湯殿だ。
 文字通りの温泉三昧。堪能したけど心が残る・・・去り難し。
 夏の終わりの、深い山の森が織り成す木漏れ日のシャワーの中を、
 宿を後にして車を出したのはもう昼の十二時近かったと思う。

  

  この温泉の名は「鉛温泉」という。気に入って何度かリピート旅をした。
  田宮虎彦の小説「白銀心中」の舞台であった事は後になって知り、
  もちろん読んだ。でも旅の途上で偶然出くわしたみちのくの秘湯…
  それは瞼の中の心象風景としてこそ今も色濃く焼きついている。


                                                おしまい