田野の日本紀行ー9
外房鵜原 編
雨が上がって 風が頬を撫でていく
海を見つめても ただ眠たそうに波打つだけ♪
「だから海に来た♪」より
学生時代、母校M大学の寮が千葉県の外房…鵜原という所にあり、
所属していたサークルの春合宿はいつもここで行なわれた。電車で行くか、車の相乗りか?
大学一年から二年にかけての春休みだった。京都から戻ったばかりの田野は、
皆とワイワイ行くような気分でもなかったので、当時の愛車「SUZUKI GT250」のバイクで
一人で行くことにし、準備もそこそこに旅立ったのである。
天気は良かった。3月の下旬なので、寒さも峠を越えていた。車で京都に行っている間、
一月以上も放っておいたのに、愛車の2サイクルの軽快なエンジン音も快調である。
養老渓谷を抜け、勝浦あたりの海に出ると後は海岸線を南下する。程なく理想郷の
小さな半島の根元を横切ると、外房線・鵜原駅…その山側に入った所に鵜原寮はあった。
今はどうだか判らないが、当時は古い木造平屋建ての寮が敷地内に広がっていて、
その古さが味わい深い寮だった。
三泊四日の合宿で何をやったかはさして覚えてないが、
天気の良かった初日から三日目までとは打って変わって、最終日に雨が降った。
雨具の用意も全くしてなかったし、雨の中を無理して急いで帰るさしたる用事もなかったので、
寮のおじちゃん、おばちゃんに事情を話して、雨が止むまで滞在させてもらう事にした。
しかし雨脚は夜になると一層強まり、一日では止まないかもしれない…。
京都での長期滞在で、貯めていたバイト代も使い果たしており、
懐具合がやや心配ではあったが…「ま、こんなのも悪くないさ!何とかならぁな!」
何とかならなかった(汗)。翌日も思いっきり雨が降っていた。しかも寒い。
いよいよ金がやばい。「飯は外で食いますから、素泊まりでもう一泊させて下さい。」
「あぁ、ええよ。部屋はたくさん空いてるから!」 おばちゃんの笑顔は癒し系だった。
悪天候のもとで日中に出来る事はほとんどなく、雨の音を聞きながら、
持って来た文庫本を読んで時を過ごした。昨日迄あんなに賑やかだった同じ部屋が、
妙に静かで淋しく感じるのは仕方ないが、雨の音が拍車をかけていた。
傘を借りて駅前の万屋でアンパンと牛乳を買った。海は鉛色をして、波は荒れ狂い、
空はどっぷりと重たかった。よく降る。そう言えばここに来る前の京都でも
長い雨に降られたっけ…。少し心が疼いた。
本はとっくに読み終わっていたし、寮に戻ってもする事がなかったが、ふと思い立ち、
万屋に戻ってノートと鉛筆を買って部屋に戻り、京都で作りかけていた曲の続きを
猛然と作り始めた。ギターもなしに、メロディを探ってはコードをはめ込み、
歌詞を整理し、一心不乱に作った。何時の間にか夜になり、障子の向こうに人の気配がした。
「学生さん?学生さん!」 おじちゃんだ。
「向こうの合宿でね、何人かキャンセルがあって、余らせても罰が当たるから食べておくれ!」
おじちゃんが一人前の夕膳を運んで来てくれたのだ。金がないのを見透かされていたようだ。
ありがたく戴く事にした。温かい味噌汁がたまらなく美味しかった。おじちゃんもおばちゃんも
田野の事を「学生さん」と呼んでくれた。いい響きだと思った。この寮が新しかった頃の
大先輩達の時代を思わずにいれなかった。古い寮で雨の音を聞いていると、
まるで時代をワープしたかのような錯覚すらあった
我々のサークルと入れ替わりに合宿入りした他のサークルがあるらしい。
棟が違うので、それは遠い気配として感じられたが、雨の音の方が勝っていた。
でもその人の気配は、長い夜には救いになり、遠い子守唄のようでもあった。
曲作りは乗りに乗って、深夜にまで及んでいた。
翌日、目が覚めたら昼近かった。雨はまだ降っていたが、雨脚は大分弱まっており、
その日の昼過ぎには、ようやく長い雨が上がった。田野は浜に出て、ボーっと海を見ていた。
地形に恵まれたいい海だ。まだ人影はほとんどない。何日もいたのに、
この浜に来るのは初めてだった。雨上がりの海を見ていると、天候がどんどん快復してくるのが
手に取るように判った。それは不思議な体験でもあった。あんなに重かった空は、
沖のほうから見る見る雲が切れて行き、薄日が差し込む夕暮れ前には、
あんなに鉛色をしていた海も、沖から徐々に青さを取り戻していく。
荒れていた波は、足元で穏やかに寄せては返している。少し眠たそうな、
気だるいコバルト色の海がそこに生まれていった。
大袈裟に言えば、天地創造をそれは思わせた。感動した。小さな悩みが馬鹿馬鹿しく思えた。
翌日は好天に恵まれた。日付はもう3月31日になっていた。
愛車のエンジン音が絶好調なのを確認すると、少し遠回りをして
ツーリングを楽しみながら帰ろうと思った。
見送ってくれたおじちゃん、おばちゃんの笑顔は春そのものだと感じた。
明けない夜はなく、止まない雨もなく、生きてさえいれば、癒えない傷もないだろう…
そんな事を海に教えてもらったように思えた。この幾日かの足止めは、
見えない力に引き寄せられたのかとさえ思えた。
花盛りの房総フラワーラインでアクセルを少しずつ開いていく。
ポケットにはもうジャリ銭しか残ってなかったが「俺、結構元気だよな!」と思いながら
コーナーを攻め、再び正面に海を見た時、
「だから海に来たのかなぁ…」と、声を出している自分がいた。
雨が上がって 海が青さを取り戻す
不思議なものだね まるで人の世を見るようだ…♪
「だから海に来た♪」より
おしまい